キャラクターとセカイの三つの相――セカイ系キャラクター論

前回のおさらい

 前回の記事では大まかにセカイ系とは何を意味する物語なのか、その解釈の大枠を示した。軽くおさらいすると、セカイ系では世界を危機にさらすことによって、日常の危機と価値観の危機を引き起こし、大きな物語が失われた現代での日常の重要性を再確認し、「自由」について問題提起し、宙づりの気持ち悪さから抜け出そうとするのであった。ややこしい文章になったが、本稿では、個人がより個別化され、選択肢を選び取ることが難しくなっていることを押さえて欲しい。
 しかし、セカイ系の特徴はこれだけにとどまらない。いちど観た方ならわかるように、セカイ系は実に類型的なキャラクターを産み出す。『新世紀エヴァンゲリオン』ならば、碇シンジ惣流・アスカ・ラングレー綾波レイ、『魔法少女まどか☆マギカ』ならば、鹿目まどか美樹さやか暁美ほむら、『涼宮ハルヒの憂鬱』ならば、キョン涼宮ハルヒ長門有希などのキャラクターが挙げられるが、彼ら/彼女らからはどことなく分類ができそうな予感がしないだろうか。本稿ではセカイ系の構造からキャラクターを分類してみる。

セカイ系の三つの相

 セカイ系には特徴的な構造として「僕/君/世界」の三つの相が現れる。即ち、主人公としての「僕」、ヒロインとしての「君」、対峙する相手としての「世界」である。ただし、「君」は「ヒロイン」と限定してしまってはやや限定的だ。言い換えれば、「自意識/関係できる他者/関係できない他者」という相なのだ。「僕」=「自意識」についてはことさら説明する必要はないが、「君」=「関係できる他者」、「世界」=「関係できない他者」とはどういうことだろうか。セカイ系では「僕と君の関係が世界に反映する」ことを思い出していただきたい。「関係」、「反映」という語に注目しよう。つまり、セカイ系では僕や君が世界と関係するのではなく、世界はあくまで僕と君の「関係」の「反映」にすぎない。「君」は「僕」と関係することができ、「僕」の働きかけによって変わることができるが、世界は厳然たるルールとして「僕」と関係することができず、あくまで反映に過ぎない。これが「僕/君/世界」=「自意識/関係できる他者/関係できない他者」という式の意味である。まとめると以下の通りだ。

  • 僕=自意識
  • 君=僕との関係によって変わり得る他者
  • 世界=僕との関係によって変わり得ない他者

 さて、ここには前回の記事で語った「大きな物語の終焉」が関係してくることに留意したい。一見、どのように関係してくるのか見えづらいが、「僕/君/世界」という相に「我々」という意識が欠落していることに注目すれば、その意味は明らかになる。セカイ系では僕は僕、君は君で、それぞれの隔絶を基調としている。無論、セカイ系のもう一つのテーマとしていかにして集団(我々)を形成するかという面もあるのだが、これはあくまで隔絶を前提として出発したテーマで、隔絶抜きには語りえない。このメインテーマである「隔絶」こそが「大きな物語の終焉」がもたらした結果なのだ。「僕」は「世界」と、あるいは「君」とですら同じ価値観を共有しないという特徴は、その戯画化である。ここからセカイ系は出発する。
 次の項では改めてキャラクター分類に戻る。勘の良い方ならもうお気づきだろう。そう、「僕/君/世界」という相にキャラクターを分類するのである。

自意識問題

 本題に入る前に、まず解決しておかねばならない重要な問題がある。それが自意識の問題である。さて、勢いあらゆる物語において「僕/自意識」とは語り手のことあるいは、主人公のことであるとしてしまいそうだが、厳密にはそうでない。wikipediaから定義を参照してみよう*1

  • 主人公(しゅじんこう)とは、フィクション作品(小説・映画・ドラマ・漫画・アニメ・ゲーム等)のストーリーの中心となり物語を牽引していく人物・キャラクター。
  • 語り手(かたりて)とは、ある物語を語る、物語内の存在(人物等)である。

 一見、この両者*2は明らかに「自意識」と一致するように思われるが、問題はそこまで単純ではない。例えば「助手は苛立っていた。」という文を考えてみよう。この文において語り手は「助手」ではない*3。主人公は「助手」かも知れないが、この場合は「岡部倫太郎」である可能性が高い。今のはネタだが、他の人物が主人公であることも十分にあり得る。だが、苛立っているかどうかは本人にしか断言しえないので、この文の自意識は「助手」にあるといえる。
 では文の自意識はどこにあるのだろうか? 先程の例にヒントがある。では少し目先を変えて「助手はバナナを食べた。」ならばどうだろうか。これは単なる観察事実なので、「助手」に自意識があるとは言いづらいだろう。これで明らかになったと思うが、文における「自意識」とは心理描写されている対象にある。なぜならば自意識がなければ、心理について断言することができないからだ。
 さて、ここでもう一つ問題があることに気付かれただろうか。文章ならば上記のような定義でよかろうが、映像(多くはアニメ)ならどうだろうか。映像では直接的な心理描写が大きく制限されている。独白があれば簡単だが、そうでないときにはいかんともしがたい。そこでこのように広く定義したい。「直接、間接を問わず、強く心理描写がされている人物(キャラクター)」と。実はこの定義は文章にも敷衍可能だ。次のような文を考えて頂きたい。「助手は無理に笑おうとして、目から涙をこぼした。」。この文章は全て観察事実で構成されているが、直接描写よりもむしろ雄弁に心理を語っている。ここにどうして自意識がないと言えようか。
 ところで、前述の定義に「強く」という文言が含まれていることの意味にお気づきだろうか。この文言には解釈の余地があるので、ある程度、自意識の適用範囲が恣意的になる。つまるところ、一つの物語内で必ずしも自意識をもつキャラクターが一貫しないし、読者によっても解釈が異なる。よって不思議なことに、「僕」は入れ替わる可能性があるのだ。また、「僕」という視点が切り替わるということは、「君/世界」についても切り替わり得るということである。これは一つのキャラクターについてはっきりと「僕(または君、世界)」の相しか持たないと断言することができないということを意味する*4。よって以下の分類は、それぞれがどんな役割を持つ傾向にあるか、あるいはそのキャラクターにどんな役割が強いかということを述べるものである。また、全てのキャラクターがこの相に分類できるわけではない。本稿ではあくまでこれらの相がセカイ系において大きな役割をはたしていることを論証するだけである。

僕/自意識としてのキャラクター

 まず冒頭に列挙したキャラクターのうちでどのキャラクターが「僕/自意識」にあたる分類しよう。この相なりやすいのは以下のようなキャラクターである。

 これらのキャラクターの特徴は前回記事で述べたような「大きな物語の終焉」の影響をもろに受けるキャラクターたちであるということである。即ち、確固たる価値観を持たず、日常を愛する。これらの特徴は物語の進行や、後述するキャラクターの相転移によって変わり得る。また、一番大きな特徴として誰とでも置換可能な存在であることが挙げられる。つまるところ「僕/自意識」とは読者・視聴者の感情移入を促し、その心理に現代の問題を描くことによって問題提起、あるいは最終的な問題の解決の場としての相であると言えるだろう。
 ここから一般的に「セカイ系の主人公は迷いやすく、感傷的で、弱い」とされる理由が導き出せる。繰り返しになるが、これらは大きな物語の終焉と、その結果である「自由」による逆説的な不自由に基づく。この相があるのでセカイ系はそのテーマである「自由」への問題提起(付随的に日常の重要性)を獲得するとも言えるだろう。

君/関係できる他者としてのキャラクター

 ここでも列挙しよう。

 一見して括弧の多さに気付くと思うが、この相になりやすいキャラクターは他の相に移る可能性も高い。例としては、美樹さやかは契約前は「僕」の相だが、契約後は「君」の相に近い。さて、"「君」の相に近い"などと述べてもピンとこないと思うので、この相の特徴を分析しよう。この相は端的に言って「僕」からみて異質な他者である(ただし「僕」と関係・対話することが可能である)。この異質さはセカイ系の影響を強く受け、行動指針があいまいになっている「僕」に対し、「君」は確固たる行動指針*6を持っていることから生ずる。かの有名な涼宮ハルヒの「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上。」という台詞を思い出せば明白だろう。この台詞は明らかに方針の表明であり「僕」側は絶対にやらないことである。そしてこの決まった方針によって、むしろ「僕」よりも物語を駆動する立場にある*7。だからしばしば「僕」側のキャラクターは巻き込まれ系などと称されるのだ。
 ところで、「異質さ」にはもう一つの意味がある。つまるところ異質さは一種の精神的な「病」である。前回も言及されたセカイ系の特徴に「究極の選択を迫る」というものがある。この条件下で明白な方針を持つということは、方針が「1か0か」「全てか無か」即ち、一種の偏執病にまで高められることを意味するのだ。涼宮ハルヒの場合は「面白いか否か」が全てを決定する基準となる。これが「僕」に対する好意に関する場合、ヤンデレとなるのである*8

世界/関係できない他者のキャラクター

 列挙する。

 これらのキャラクターに共通するのは、その冷徹さ、妥協のなさである*9。常に自己が揺らぐ「僕」から見れば、彼ら/彼女らはルールの象徴であるか、ルールそのものである。これらの存在は「僕」にとっての社会の投影であるので、常に僕はこれらへの対応に追われることになる。こうして「僕」は常に「世界」に対して敵対するか畏怖するようになるのである。
 この構造はセカイ系の「僕と対峙する世界」という基本的な世界観を構成する。逃げるか、戦うか、和解するか、その選択肢が「僕」に付きつけられて、セカイ系はその意味を発動するのである。

キャラクターの相転移

 前述のように、「僕/君/世界」という構図は必ずしも静的なものではなく、物語と共に変わり得るのだが、それが時として驚くべき効果をもたらすことがある。例えば長門有希は『涼宮ハルヒの消失』において「世界」から「君」に相転移する。ネタバレになるので多くは語らないが、実際に読んでみてその意味を確かめて欲しい。
 後日、『輪るピングドラム』評で詳細に検討したいと思うので、ここではほのめかすだけにとどめるが、ある種のセカイ系では「自由」から生まれる不自由への対抗策としてキャラクターの相転移が用いられることもある。

まとめ

 セカイ系では「僕/君/世界」という遠近感の相とその相転移が存在し、この相によってキャラクターと物語が絶妙な意味を持つ。セカイ系の意味はこの相と相転移に由来するといっても過言ではないくらいだ。その相とは以下の通りである。

  1. 僕/自意識――物語の問題提起であり、解決の場としての相。
  2. 君/関係できる他者――「僕」に対して異質な存在であり、物語を駆動する相。また、偏執的である。
  3. 世界/関係できない他者――冷酷なルールとしての存在であり、「僕」と対峙する。

 実際にセカイ系作品に触れたとき、この相の威力を実感してもらいたい。また、次回更新では、前回今回と用意した理論的素地に基づいて『輪るピングドラム』を考察してみたいと思う。乞うご期待。

*1:主人公 - Wikipedia語り手 - Wikipediaより

*2:本筋とは関係ないが、少し両者の差がわかりにくいので補足。例えばホームズとワトソンを思い起こしてもらいたい。かのシリーズはワトソンが書いたという設定、つまりワトソンが語り手だが、物語を牽引する主人公は明らかにホームズの方だ。

*3:「助手」という一人称の可能性もあるが、気持ち悪いので考えない。

*4:ところでこの性質は『輪るピングドラム』において重要な意味を持つのだが、それは後日また記事にしたい。

*5:括弧付きなのは前述のように決定が難しいためである。また、繰り返すようだが、全てのキャラクターがこの相になりえるので、列挙しているのはあくまでその相になりやすいキャラクターである

*6:小さな物語と言い換えても良い

*7:別の言い方をするならば、主人公である

*8:もちろん、ヤンデレの発生には他の道もあり得るが、セカイ系と親和性が高い。

*9:例えばゲンドウのダミープラグ発動、きゅうべえの手段を選ばない契約勧誘、長門有希の比類なき力を持った情報改変……。