幸せって何だっけーーデレック・ボック『幸福の研究』書評

 
 幸せって何だっけ。明石家さんまは「ポン酢醤油のある家さ」と歌ったが、本当のところどうだろう。「世の中は金さ」なんて露骨に言うことは珍しいけれども、お金は幸せになるための要素の一つとして広く受け入れられている。実際、政策の成果は往々にして経済成長という「金の量」で測られる。だが本当に幸福はお金で買えるのだろうか。それが本書の問いかけだ。結論から書けば、「必ずしもお金は幸福に結び付くわけではない」というのが本書の主張だ。なんだ、「いわゆる道徳的倫理的お説教本か」と片付けてしまうのはまだ早い。本書はきちんとした科学的手法に基づいた幸福の"研究"である。やりかたは非常にシンプル。人々にある行動や、生活一般の"幸福さ"についてアンケートをとるだけである。本書では主にアメリカについての調査を基に議論しているが、日本にも当てはまる幸福についての実に面白い知見が得られる。少し引用してみよう*1

 各国の平均幸福度の違いは一人当たりの平均所得と強い相関関係があることが、世界規模の調査で明らかになっている。わずかな例外はあるが、豊かな国の国民は貧しい国の国民よりも幸せということである。
 この研究結果は、人々の幸福に関して所得が重要な役割を果たしている、という経済学者の長年の想定を実証しているようにみえる。しかしながら、長年に渡り富裕国の幸福度を追跡して調べた研究によれば、驚くべきことに、多くの人々の生活満足度はキャリアを積んで最終的に引退する過程で所得が上下してもほとんど変化しない、ということが明らかになっている。さらに不可解なことに、(略)アメリカは過去五○年間に一人あたりの実質所得が大きく増加したにもかかわらず、生活満足度の平均水準の上昇は認められない、ということがわかっている。

 そして、本書は幸福とお金について次のように結論する。

 お金で買えるものに重きがおかれる物質主義の社会では、成功は金銭的な観点で評価されることが多く、財産とそれがもたらす所有物が、社会的地位、そして隣人や同僚からの尊敬の重要な源泉となる。この欲求を満たす手段であるお金を稼ぐ行為は、多くの場合、不断の努力と長時間の労働を必要とすることから、家庭生活の犠牲や満足感をもたらす趣味の時間の削減が求められ、不安感やストレスにつながる。

 つまり、簡単にいえば、お金と幸福は一種の疑似相関の関係にあることが指摘されている。社会的地位や尊敬、積極的な他者との関わりがお金と幸福の双方の源泉なのである。この観点から見れば、経済成長や明石家さんまが歌うような"ポン酢醤油のある家"は人間の「慣れ」と膨張する欲望のために、持続的な幸福にはつながらないというわけである。もちろん、本書ではお金や経済成長が全否定されているわけではない。現在の社会ではゼロ成長、あるいはマイナス成長のような事態に陥れば、人々は失業し、ひいては幸福度の減少にもつながる。すなわち、本書の主張は「世の中は金さ」に対抗する「世の中は金だけではない」なのだ。
 そしてもう一つ、政府への過剰な不信は不幸をもたらす、という面白い指摘がある。引用してみよう。

 増税が困難であるのに、新しいサービスや便益を求める有権者に迫られ、議会は支払える以上のプログラムを策定して対処する。そして、その穴埋めを将来世代の負担となる借金で行うか、(略)費用負担を転嫁して行うことになる。あるいは、プログラムに必要な財源を準備せず、その結果、公約された便益は達成できないことになる。このようにして、政府に対する否定的な態度は政府をより無力なものにしてしまうという自己実現的傾向をもつ。そのことがまた、政治家に対する国民の冷笑的な態度を強め、幸福を減じさせ、そして緊急な対処が求められる諸問題への取り組みを妨げることになる。

 これは「子ども手当も高校無償化も高速道路無料化も社会保障の充実もやれ。だけど増税反対!」というような態度と非常に似てはいないだろうか。この分析は政治不信や政治への無関心の弊害を端的に捉えたといえるだろう。このように「世の中は金さ」に代表されるような、ある程度共有された価値観は必ずしも幸福に結び付かなかったり、政治に対する不当な不信や無関心によって、人は知らず知らずに自らの幸福を損なっている。本書は「幸福」という新たな評価軸を提示することによって、様々な問題に光を当て、既存の価値観に疑問を投げかけているのだ。
 さて、これらの主張にどことなく「そんなのは幸せの形を強要しているだけじゃないか」と胡散臭さを覚えた方もいるだろう。もちろん、本書はその点も遺漏がない。具体的には実際に読んでもらいたいが、幸せは本当に政策決定の方針になり得るのか、などについての議論も盛り込んであり、議論の余地はあれど、実に中立的である。また、本書の議論はあくまで「統計上、幸せを感じることが多いことがら」を示すのみにとどまり、個人の幸せの形はその個人にしか決められないことにも留意している。ただ、もっとも注目すべき点は、人間は「自分にとって何が幸せであるか」を驚くほどよく知らないことである。画面の向こうのあなたも、そして筆者もそれは例外ではないだろう。本書を読めば実証研究に基づいた「幸福」についての知見を手に入れることができる。その知見が実際にうさんくさいかどうかは、本書を読んだ後、自ら考えて欲しい。これを機に一人でも多くの人が幸せについて考え直し、自らの幸せを掴むことができれば、筆者も書評した甲斐があるというものである。

幸福の研究―ハーバード元学長が教える幸福な社会

幸福の研究―ハーバード元学長が教える幸福な社会

*1:以下、引用中の太字強調は筆者によるもの