因果関係を記号論理でどう表すか

 因果関係を表す文、すなわち「AだからB」は日常生活でもよく使われる。この文は直感的に真理関数であるように思われる。なぜならば、AとBの真偽によって「AだからB」の真偽が定まるように思われるからである。たとえばAが真でBが偽のとき、「AだからB」は偽になるだろう。つまり、原因があるのに結果が伴わない場合、それはもはや原因とは呼べない。こういった真理関数はなんらかの記号で表すことができる。では因果関係は具体的にはどのような記号で表される真理関数になるのだろうか。以下ではそれを探っていこう。

A→Bはどうか?

表1

A B A→B

 さて、素朴に考えるならば「AだからB」は「A→B(A⊃B)」と表せそうだ。しかしこの解釈には問題がある。もし、この解釈を採用するならば「→」の定義に従って真理表は表1のようになる。前段落で言及した「Aが真でBが偽のとき、「AだからB」は偽」は表1で満たされている。この点だけを考えるならば、「AだからB」は「A→B」と表してもよいように思える。ところが、Aに「a氏は末期癌だ」Bに「a氏は死んだ」を代入した場合を考えよう。文全体は「a氏は末期癌だからa氏は死んだ」となる。ここで表1の下二段をみると、Aが偽のときBの真偽に関わらずA→Bは真になるとされているが、これは奇妙だ。なぜならAが偽ということは、「a氏は末期癌でない」ということを示す。にもかかわらず「a氏は末期癌だからa氏は死んだ」という文が真になってしまうのはおかしい。つまり、Aが偽のとき「AだからB」が偽にならなければならないような例が存在する。本稿ではこの問題を「a氏問題」と呼ぼう。この問題があるので我々は「AだからB」を単純に「A→B」とすることを諦めなければならない。

A∧Bはどうか?

表2

A B A∧B

 では、「AだからB」が真なのはAもBも真のときに限るのだろうか。a氏問題を解決するためには、そうせざるを得ない。なぜなら、前述のようにAが偽のとき「AだからB」が偽にならなければならず、Aが真でBが偽のときに「AだからB」は偽にならなければならないからだ。これを記号に置き換えれば「A∧B」となるだろう。これを真理表で表せば表2となる。この表し方以外ではa氏問題を解決できないことを確認してほしい。しかし、この解決法は同程度に重大な問題を引き起こす。たとえばAに「冥王星は存在する」Bに「筆者はこの文章を書いている」を代入してみよう。文全体は「冥王星は存在するから筆者はこの文章を書いている」となる。筆者の知る限り、AもBも真である。したがって「A∧B」も真になる。しかし、「冥王星は存在するから筆者はこの文章を書いている」は偽であるように思われる。このように「A∧B」ではAとBが無関係な内容でも真になってしまう。これを「冥王星・筆者問題」と呼ぼう。この問題ゆえに「A∧B」で「AだからB」を表すことも諦めねばならない。

命題論理の問題点

 ところで冥王星・筆者問題は「A∧B」の形に特有のものではなく、命題論理に通有の問題である。つまり、真理表(表1)をみれば明らかなように、最上段の条件は「A→B」と「A∧B」で変わらない。したがって、「A→B」だろうと「A∧B」だろうとAとBの内容は真偽に関係がない。どの結合子を選ぼうと、これと同じ問題が付きまとう。ではどうするべきなのか。そう、命題論理自体から離れねばならないのだ。

特殊と一般の区別

 命題論理を離れてこの二つの問題を解決する導入として、特殊な命題と一般的な命題の区別を行おう。「AだからB」と述べる場合には、「“ある場合に”AだからB」を意味するときと「“一般的に”AだからB」を意味するときの二種類の場合がある。例えば「猿は胎生だから哺乳類である」と「一般的に胎生だから哺乳類である*1」を比べてみよう。前者はすでに検討したように、「猿は胎生である」と「猿は哺乳類である」が成り立たねばならない。もし猿が胎生でないか哺乳類でなければ、この命題は成り立たないだろう。しかし後者は胎生でないような生物(たとえば鳥)や哺乳類でない生物(たとえば魚)の存在によって成り立たなくなることはない。成り立たなくなるのは、胎生かつ哺乳類でないような生物が存在する場合である。

述語論理へ

 これを踏まえて、因果関係を述語論理で記号化しよう。まず、因果関係の一般的な形は∀x(Ax→Bx)*2と表せる。すなわち、Aを「xは胎生である」Bを「xは哺乳類である」とすれば、xに猿を代入しても鳥を代入しても偽にならない。筆者は寡聞にしてそのような生物をしらないが、もし胎生であって哺乳類でない生物xが存在すれば、∀x(Ax→Bx)は偽になる。これは「Aには必ずBが伴う」という一般法則を表している。
 ここで冥王星・筆者問題は克服されている。冥王星・筆者問題で焦点になった命題を量化すればこれは明らかだ。「冥王星は存在するから筆者は文章を書いている」を量化して「すべての星xとすべての書き手yについて、xが存在するとき、yは文章を書いている」となる。これは明らかに偽だ。冥王星はいつでも存在するが、筆者はいつでも文章を書いているわけではない。このようにして、内容に関係がない二つの事柄は特殊な命題を真にしても一般的な命題を真にすることはできない。
 さて、ここまでくれば特殊な因果関係も扱うことができる。すなわち、(Aa∧Ba)∧∀x(Ax→Bx)と表せばよい*3。こうしてa氏問題も解決される。aは「a氏」、Axは「xは末期癌である」Bxは「xは死んだ」としてみよう。すると(Aa∧Ba)∧∀x(Ax→Bx)は「a氏は末期癌でかつ死んだ。さらに末期癌になった者は必ず死ぬ」という文を表すことになる。こうしてa氏に関しては末期癌であり、死んだことが主張される。さらにそれだけではなく、全ての人は末期癌になれば死ぬことが主張されている。したがって、a氏が末期癌でないかまだ生きているか、あるいは末期癌になってもまだ生きている人*4がいた場合、この命題は偽となる。つまり、a氏問題と冥王星・筆者問題が同時に解決されたのである。

結論

 まとめよう。因果関係は記号論理で以下のように表せる。

  • 一般法則の場合、∀x(Ax→Bx)
  • 特殊例の場合、(Aa∧Ba)∧∀x(Ax→Bx)

 改めて振り返ってみれば、ごく当たり前のことだが、こんなものだ。単純に式を扱うような場合、論理学の命題はだいたい当たり前のことでできている。

補遺――日常言語の「だから」

 ところで、日常言語における「だから」は∀x(Ax→Bx)ほど強力な主張をしているとは思えない。たとえば、「寒かったから暖房をつけた」という文を考えてみよう。これを厳密な因果関係として解釈すると、「寒いときには必ず暖房をつける」という一般的な法則を指すことになる。しかしよっぽど酔狂な人でない限り、「寒かったから暖房をつけた」と述べることによって、「寒いときでも暖房をつけずに厚着する・我慢する・震えるなどの行為をすることはありえない」などと主張することはないだろう。この日常言語との解離には以下のような場合が考えられる。

  • 原因はよくわかっていないが、合わせて起こる現象を仮に原因として考えている場合。
  • 原因の一部を述べている場合。

 前者の場合はとくに述べる必要はないだろう。これは我々の認識能力の限界・混乱を示すものであって、望ましいものではないが仕方ない。
 後者の場合はすなわち、一般法則が∀x((A1x∧A2x∧……∧Anx)→Bx)と表される場合、特に重要と思われる一つのAを選んで「AだからB」と述べている場合である。「寒かったから暖房をつけた」の場合は「寒く、かつそこに暖房器具があったから暖房をつけた」のうち寒いという主観的に重要そうな要因を選んできたものと捉えることもできるだろう。「一因を為す」や「諸要因がある」という言葉はこれを表すものだといえる。
 このように考えると、この述語論理による因果関係の把握は、多少の乖離はあれどそれほどに日常言語とかけ離れているわけではないだろう。

*1:自然言語としてはやや変な表現だがご容赦いただきたい。

*2:ここでは変項を一つしか使っていないが、いくつでも特に関係ないだろう。なお、議論領域は適切に設定されているものとする。以下同じ。

*3:この式はAa∧∀x(Ax→Bx)と同値なので、Baが冗長だが、わかりやすさのためにこのように記す。

*4:蛇足だが、まだ生きていると表現したのは、末期癌でなくとも人はいつか死ぬからである。他意は無い。

大きな物語の整理

 筆者はセカイ系が描く世界――セカイ系概論 - 脳内大雨注意報で注5に"「終焉した」が意味することについて普通とは違った解釈を持っている"と書いたが、今回はそのあたりについて述べていく。さて、先に挙げた記事での「大きな物語の終焉」について違和感を持たれた方もいるだろう。実際に筆者はその普遍性を疑う声を受けている。この記事は筆者に可能な限りで、「大きな物語」周辺の概念を再整理し、その疑問に答えるためのものである*1

大きな物語に関する諸疑問

マスターナラティブ。神、ユートピアイデオロギー等、皆がそれに巻き込まれており、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれるもの。

 これは大きな物語とは - はてなキーワードによる「大きな物語」の定義である。なるほどそういうものか、と納得していただければ話は早いのだが、よくよく考えていれば実に漠然とした定義ではないか。ざっとまとめると疑問点は以下の通りだ。

  1. "皆"とはどのくらいの人数が居ればよいのか
  2. "巻き込まれる"とはどういうことなのか
  3. "誰が"この筋書きを提供するのか

 以下ではこの三点の疑問に答えていく形で話を進めていこう。

大きな物語」は大きくなくてもいい

 これらの疑問の焦点は”大きな”物語がどのくらい大きくあるべきなのか、にある。
 キリスト教共産主義軍国主義……。これら「大きな物語」の例を挙げるときにはこうした壮大な、いわば大きい概念が持ち出されることが多い。しかし、この定義は実に恣意的である。例えばマイナーな新興宗教大きな物語とは言えないのだろうか。同じ価値観を共有して行動しているのに「大きな物語」があるとみなせないのは、実に不自然である。もっと小さくするならば、「いい学校へ入って、いい会社へ行って幸せになる」というようなある家庭内で共有された筋書きですら「大きな物語」とみなせるのではないか。すなわち、物語の"大きさ"は重要な要因ではない。大きさは問わず、自発的に集まった「共同体」*2であることだけが要求されるのだ。
 さて、ではこれらの共同体の「物語」たちはどのような共通点を持つだろうか。一般に大きな物語は結果として価値観がほとんど共有されるため、「共有されるもの」と定義されがちである。ところが、この共有という語も実に曖昧である。自明なように、どんなに徹底しても人間同士の個体差がある以上、完全な共有は不可能である。ここで"巻き込まれる"という表現が重要となる。自分から信じていくのではなく*3、"巻き込まれる"、つまり、従うかどうかは問わず、強制されるのが重要なのだ。従う、信じる、共有されるという現象は、単なる結果に過ぎない。メンバーが大きな物語に違反した時に、このことは明らかになる。神を否定したり、資本家だったり、軍に反抗したり、いい学校に入れなかったりしたときに、刑務所にぶちこまれたり、死刑になったり、勘当されたりするわけである。この後半部のいわば暴力があるか否かが大きな物語かどうかの境目なのだ。
 さて、ここまでくれば"誰が"大きな物語を提供するのかはもはや自明だろう。暴力をふるえる者、つまりもっとも権力を持つ者である。近現代社会ではもっとも重要な暴力である軍事力を独占するのは国家であるため、「大きな物語」と語った時、暗黙のうちに国家、あるいはその主権者が提供する大きな物語を指すことになる。
 ここまでの話をまとめて、再び大きな物語を定義しよう。

大きな物語
ある共同体において、権力を持つ者が強制する筋書きのこと。

個人の思念・社会の基盤と大きな物語

大きな物語が働いていたころ

 次に上で整理した「大きな物語」がどのように働き、どのように役立つのか、周辺の概念を導入しつつ説明する。端的にいえば、「大きな物語」は個人の認識の変化の傾向を明らかにすることができる。また、以下では国家という共同体、さらに言えば、先進国、あるいは日本という国家に焦点を当てていることを自明として話を進める。この他の条件では他の結果が得られることを念頭に置いてほしい。
 さて、まずはこの説明のために、個人の思念と社会の基盤という概念を導入したい。

個人の思念
一人の人間が考えていることの全て。
社会の基盤
社会が成り立つための概念の全て。大きな物語やその背景となる実社会の現状を含む。

 これらの関係を記述するときに、その難解さが尺度となる。改めて確認するまでもないが、実社会の現状は限りなく複雑である。そのために各分野の学者という職業が存在するのであって、実社会のすべての概念を一人の人間が把握できるはずもない。「大きな物語」はこの限りなく複雑な実社会を人つの物語に落とし込むことによって、難解さを軽減する効果がある。もう一つ、難解さを軽減させるものとして日常や常識が考えられる。「それは常識だろ」という言葉が、誰でもわかるあたりまえのこと、という意味を含意することも、常識が難解さを減らしていることの証左である。
 これら「大きな物語」や日常・常識は我々の思念をチェックする。大きな物語がいかに我々の思念をチェックするかは前述のとおりである。一方で日常や常識はもはや個人の思念と不可分で、ほぼ自明になっているために、個人の思念に多大な影響を与えるのだ。このチェックには序列が存在する。大きな物語は個人の思念とほぼ不可分であるために、個人の思念と同時に日常・常識をチェックするのだ。逆に我々の方もチェックに対応し、常にこれらを意識せねばならないので、日常・常識や大きな物語にコミットしていく。このコミットによって、変革の可能性が保障される。
 こうして大きな物語が働くとき、我々の思念は影響を受け、多かれ少なかれ大きな物語に基づいて世界を認識するようになるのである。
 図解すると次のようになる(図1)。

"終焉"とはどういうことだったのか

 現代社会の状況は「大きな物語の終焉」と形容される。ところが、上記の図解からもわかるように、大きな物語だけがすっぽりと消えてしまうわけにはいかない。大きな物語は複雑な実社会を個人に接続する役割を果たしているため、いきなりなくなるわけにはいかないのだ。
 そこで筆者は"終焉"ではなく、大きな物語自由主義にとってかわられると考える。自由主義だって一種の大きな物語ではないか、と指摘するのはごもっともである。大胆に表現するならば、大きな物語は終焉していない。自由主義であろうと「お互いの自由を最大限にすれば幸せになるだろう」という筋書きを提供するのである。ところが、自由主義では他人の自由を侵さない限り、何を考えようが自由なのだ。つまり危険な思念を実行に移した場合(サリンを撒いたり不適切な治療で人を殺してしまったり……)にのみ罰せられるだけで、サリンを撒くことを考えるだけでは罰することができない。このようにして前項でのチェック機能は弱まっているのだ。こうして、大きな物語は自由によってほとんど意識されなくなる。すなわち、終焉とはほとんど意識されなくなる、という意味だった。しかしこの言葉はややミスリーディングである。むしろここでは、大きな物語の背景化が起こっているのだ。考えてみれば自由主義は本来、政府や他人からの自由を意図していたから、当然の帰結とも言えよう。
 これに対応して、自由主義へのコミットの必要性も減ってゆく。なにしろ、どれほど心中で蔑ろにしようとチェックされないのだから、なぜコミットする必要があるのだろうか。無論、世の中には真剣に自由主義にコミットしている人もいるが、多くの人はもはや別の思想にコミットして世界を認識している。この大きな物語以外の物語に堂々とコミットするという行為も、自由主義大きな物語になっているからこそ成立するのである。
 この結果、チェックされることによる圧力が弱まり、思想が多様化する。その顕著な結果の一つに思想の暴走がある。先ほど引き合いに出した、オウム真理教ライフスペースがまさにこれだ。彼らの思想はだんだんと危険な方向に向かっていったのだが、思想が危険なだけでは罰することはできない。そうして放置されて臨界点を迎えた結果が地下鉄サリン事件だったわけでだ。
 もう一つ、顕著に観察される傾向に、日常・常識の延長がある。自由主義へのコミットが減ずるということは、必ずしも他の物語へのコミットが増すことを含意しない。ここまで読んできた方には必ずしも当てはまらないかも知れないが、人間には思考を節約しようとする傾向があることを思い出してもらいたい。ばら売りとパックだったら何も考えなくてもパックの方が安いはずと判断した方が楽に決まっているのだ。こうして日常・常識が延長され、大きな物語より平易な概念としてコミットされるのである。この現象のもう一面は、難解なものに対する拒否である。政治、経済、もっというなら日常に直接関係しないと考えられている学問全般が、ほとんど日常にしかコミットしないことによって拒否されるのだ。こうしてふらふらした、いわゆる巻き込まれ系という特徴が形成されるのである。
 これまでの議論を図示すると次のようになる(図2)。

文化への影響

 大きな物語の終焉改め背景化はこのように社会に大きな影響を及ぼしているのである。以下では簡単にいわゆるヲタ文化へこの現象がどのような影響を及ぼしているか見ていく。詳しくはセカイ系が描く世界――セカイ系概論 - 脳内大雨注意報を参照。

セカイ系とその周辺

 キャラクターとセカイの三つの相――セカイ系キャラクター論 - 脳内大雨注意報では日常の危機と価値観の危機がセカイ系の根幹を為すと分析した。これと前述の論考を考え合わせると、実にすっきりと説明できる。
 さて、セカイ系の主人公(「僕/君/世界」でいう「僕」と置き換えてもらって構わない)は確固たる価値観を持たない存在である。すなわち、巻き込まれ系であるという意味で、日常へコミットしているキャラクターだといえる。この日常にコミットするキャラクターから日常を奪うということは、価値観の危機に直結するわけである。言い換えるならば、日常をはぎ取られ、もっと難解なものにコミットせざるを得なくなったとき、いままで日常以外を持たなかったために、葛藤が起こる。
 また、巻き込まれ系の主人公に対して働きかける異質なキャラクターたち(往々にしてヒロイン)は今までで言うところの、多様化、もっと踏み込むなら暴走した個性といえる。この異質なキャラクターたちを通して主人公は世界の異質な面を垣間見るのである。そして時にはその異質なキャラクターに肯定され、新たな指針とすることもある*4。また、もう一つ強調しておくべき特徴は、異質なキャラクターとの邂逅はいつも日常の場*5で起こる。これは日常にしかコミットしていない主人公をいわば引きずり出すような役割を持つためにこうなるのである。
 すなわち、セカイ系は日常をはぎ取って異質な他者・世界と対峙させることによって、現代における個人の思念のありかたに問題提起しているのである*6
 ところで、この特徴はセカイ系のみに限らない。異質な他者・世界はその存亡が問題になるかどうかに関わらずヲタ文化で繰り返し登場するモチーフである。例えば西尾維新の小説はセカイ系でないが、これらの特徴を備えている。これらを「雰囲気セカイ系」と名付けると理解がはかどるのではなかろうか*7

日常系

 日常系はセカイ系の問題提起とは逆に日常を全肯定するものである。「現状で何が不満足?」というわけだ。だから日常系はゆるゆるで、人物関係の複雑さもなければ、世界の新たな一面が垣間見えたりもしない。しかし支持される理由は日常を強化し、複雑に考えなくてもよいという人間誰しも備える価値観を肯定してくれるからである。

まとめ

 ある先進国、あるいは日本という共同体では、自由主義が新たな大きな物語となり、大きな物語のチェック機能が弱まり、大きな物語は背景化する。これによって、多様化・暴走する個人とほとんど日常にだけコミットする個人が、大きな物語が働いていたときよりは傾向として多くなってゆくのである*8

*1:なお、恥ずかしながら筆者はリオタールについて入門書でつまみ食いしているだけなので、厳密にリオタールを踏襲した議論にはできないかも知れないが、お目こぼしいただきたい。

*2:家族や国家は選べないため、自発的でないともいえる。ここにはかなり議論の余地があるが、勘当・亡命のような手段がある以上、共同体とみなす。

*3:自ら信じていく場合もあるが、前述のように本質的な定義にもならない。

*4:ヒロインがだいたい主人公にデレるのはこのせいではないかと睨んでいる。

*5:典型が学園である。

*6:その結果、逆説的に日常の重要性がみえることもある

*7:是非観察してほしいが、ほとんどのヲタ系作品はセカイ系か雰囲気セカイ系に当てはまるように思う。

*8:あくまで傾向ということに留意されたい。自由主義以外の大きな物語以外にコミットしていることもある。また繰り返すがこれが先進国/日本についての議論であることにも注意。これより小さな共同体(学校、家族、趣味仲間)や大きな共同体(アジア、世界)では成り立たないことが多い。

「輪るピングドラム」とセカイ系の「病」

※ネタバレ全開につき注意

 「輪るピングドラム」とは結局のところなんだったのか。最終回のある意味での超展開に圧倒された後、筆者は頭を抱えた。ピングドラムとは。あの謎空間の数々は。オウムとの関わりは。ARBとの関係は。最終回で起こったこととは。この記事を書いているいま、いまだ未整理のまま放り出してしまった要素がいかに多いかをひしひしと感じている。他にも宮沢賢治との関係など、挙げだすともはやきりがない。だがしかし、細かいところはわからなくとも、セカイ系が描く世界――セカイ系概論 - 脳内大雨注意報や続くキャラクターとセカイの三つの相――セカイ系キャラクター論 - 脳内大雨注意報*1を書きながら様々に考えを巡らせているうちに、全体として一つの解釈が浮かんできたように思う。もやもやしている多くの方のためにも、全体観を提示することは、決して無意味ではなかろう。
 さて、結論から書いてしまおう。これから様々に回りくどい語りをするが、結論自体は実に穏当なものである。すなわち、"「輪るピングドラム」とは「幸福」の物語である"と。

本作を取り巻く諸前提

セカイ系の論理

 本作がセカイ系であるかについてはやや議論の余地があるだろう。なぜならば、本作は明らかに世界全体の変革がなされていない。「運命の乗り換え」はあくまで高倉家とその周辺のみに作用していた。ただし、作品全体にセカイ系の論理が徹底されていることは間違いない。一見して明らかに指摘できるのは自意識の孤独である。「こどもブロイラー」然り、「氷の世界」然り、どちらも孤独を中心に据えている。同時に押さえておくべきなのが、この「孤独」が明らかに共通の問題として描かれていることだ。後に検討するが、本作はこの「孤独」から出発し、それに対する回答を提示している。
 また、ややテクニカルな話になるが、この孤独の結果、「僕/君/世界」という画然とした区分けが発生している。「僕」は迷い、傷つく、受動的な主体として、「君」は確固たる指針をもった存在として、「世界」はルールとして、キャラクターがこれらの状態間を移動することがあっても、この概念は決して交わることはない。ここで「僕」と「君」が混然一体となった「我々」という概念が欠落していることが、あとで鍵となる。
 全体として、「大きな物語の終焉」に沿った現代の情況に呼応している、つまりセカイ系の文脈に乗っていることを本作の前提の一つとして念頭に入れて欲しい。

輪らない「家族」

 本作の家族は「輪らない」。例えば荻野目苹果は親が離婚する。多蕗とゆりは台詞にもあるように「所詮、僕らは偽の家族でしかない」。つまるところ、そこには愛情の一方的な押し付けはあれど、循環がない、すなわち「輪らない」のだ。この視点で見たとき、輪らない家族がもう一組ある。そう、高倉家である。まず彼らの両親は失踪していて(というか死んでいたのだが)、そもそも残された冠葉、晶馬、陽毬は誰一人として血縁関係にすらない。そして、非常に重要なのが、彼ら相互で愛情が「輪らない」ことだ。特に冠葉、そして晶馬は陽毬を助けるため東奔西走するわけだが、この努力は常に陽毬に伏せられている。すなわち、相手の気持ちを確認した上での愛情ではなく、単なる押し付けに過ぎない。これは前述した「幸福」ともかかわってくる非常に重要な点なので、のちに詳述することになるだろう。
 総括すると、ここでは家族*2が上手く機能していない状況が前提になっているのだ。

愛と幸福

 前述の両者をつなぐ前提が、「愛と幸福」である。マズローの欲求階層説では、人間の欲求は五つの段階に分けられ、下位の欲求が満たされていくと上位の欲求が高まるとされている。自己実現理論 - Wikipediaを引いてみよう。

  1. 生理的欲求(physiological need)
  2. 安全の欲求(safety need)
  3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
  4. 承認の欲求(esteem)
  5. 自己実現の欲求(self actualization)

 当然のことであるが、アニメのような娯楽を楽しめる層は、1と2の欲求は基本的に満たされている。すると自然、欲求は3以上へと向かうわけである。本作でも、というより近年の創作全般において、この傾向は自己実現は徹底されている。本作中で例を挙げるならば、ペンギン帽子を取り戻すために、トラックに引きずられる冠葉などは非常に象徴的である。ここでは安全の欲求よりはむしろ所属と愛の欲求、承認の欲求が打ち勝っているのである。ところで、冷静に考えてみると、これは明らかに暴走である。トラックの運転手に何らかの形で止めてもらうように頼んだりなんなり、あんな無茶をしなくてもよかったはずだ。後に「病」との関係で詳しく書くが、本作ではこのように近視眼的な目的が第一になり、冷静に物事をみることができないという状況が頻出する。このような、愛と承認への欲求の暴走とその解決がこの物語を貫く一本の柱となるのではないか。これを最大の前提として以下の論考を進めよう。

*1:ここで挙げた二つの記事は、読んで頂けるとあとでかなり捗ると思われる。

*2:非常に乱暴だが、「家族=共通基盤」として大きな物語との関連性も指摘できる。

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幸せって何だっけーーデレック・ボック『幸福の研究』書評

 
 幸せって何だっけ。明石家さんまは「ポン酢醤油のある家さ」と歌ったが、本当のところどうだろう。「世の中は金さ」なんて露骨に言うことは珍しいけれども、お金は幸せになるための要素の一つとして広く受け入れられている。実際、政策の成果は往々にして経済成長という「金の量」で測られる。だが本当に幸福はお金で買えるのだろうか。それが本書の問いかけだ。結論から書けば、「必ずしもお金は幸福に結び付くわけではない」というのが本書の主張だ。なんだ、「いわゆる道徳的倫理的お説教本か」と片付けてしまうのはまだ早い。本書はきちんとした科学的手法に基づいた幸福の"研究"である。やりかたは非常にシンプル。人々にある行動や、生活一般の"幸福さ"についてアンケートをとるだけである。本書では主にアメリカについての調査を基に議論しているが、日本にも当てはまる幸福についての実に面白い知見が得られる。少し引用してみよう*1

 各国の平均幸福度の違いは一人当たりの平均所得と強い相関関係があることが、世界規模の調査で明らかになっている。わずかな例外はあるが、豊かな国の国民は貧しい国の国民よりも幸せということである。
 この研究結果は、人々の幸福に関して所得が重要な役割を果たしている、という経済学者の長年の想定を実証しているようにみえる。しかしながら、長年に渡り富裕国の幸福度を追跡して調べた研究によれば、驚くべきことに、多くの人々の生活満足度はキャリアを積んで最終的に引退する過程で所得が上下してもほとんど変化しない、ということが明らかになっている。さらに不可解なことに、(略)アメリカは過去五○年間に一人あたりの実質所得が大きく増加したにもかかわらず、生活満足度の平均水準の上昇は認められない、ということがわかっている。

 そして、本書は幸福とお金について次のように結論する。

 お金で買えるものに重きがおかれる物質主義の社会では、成功は金銭的な観点で評価されることが多く、財産とそれがもたらす所有物が、社会的地位、そして隣人や同僚からの尊敬の重要な源泉となる。この欲求を満たす手段であるお金を稼ぐ行為は、多くの場合、不断の努力と長時間の労働を必要とすることから、家庭生活の犠牲や満足感をもたらす趣味の時間の削減が求められ、不安感やストレスにつながる。

 つまり、簡単にいえば、お金と幸福は一種の疑似相関の関係にあることが指摘されている。社会的地位や尊敬、積極的な他者との関わりがお金と幸福の双方の源泉なのである。この観点から見れば、経済成長や明石家さんまが歌うような"ポン酢醤油のある家"は人間の「慣れ」と膨張する欲望のために、持続的な幸福にはつながらないというわけである。もちろん、本書ではお金や経済成長が全否定されているわけではない。現在の社会ではゼロ成長、あるいはマイナス成長のような事態に陥れば、人々は失業し、ひいては幸福度の減少にもつながる。すなわち、本書の主張は「世の中は金さ」に対抗する「世の中は金だけではない」なのだ。
 そしてもう一つ、政府への過剰な不信は不幸をもたらす、という面白い指摘がある。引用してみよう。

 増税が困難であるのに、新しいサービスや便益を求める有権者に迫られ、議会は支払える以上のプログラムを策定して対処する。そして、その穴埋めを将来世代の負担となる借金で行うか、(略)費用負担を転嫁して行うことになる。あるいは、プログラムに必要な財源を準備せず、その結果、公約された便益は達成できないことになる。このようにして、政府に対する否定的な態度は政府をより無力なものにしてしまうという自己実現的傾向をもつ。そのことがまた、政治家に対する国民の冷笑的な態度を強め、幸福を減じさせ、そして緊急な対処が求められる諸問題への取り組みを妨げることになる。

 これは「子ども手当も高校無償化も高速道路無料化も社会保障の充実もやれ。だけど増税反対!」というような態度と非常に似てはいないだろうか。この分析は政治不信や政治への無関心の弊害を端的に捉えたといえるだろう。このように「世の中は金さ」に代表されるような、ある程度共有された価値観は必ずしも幸福に結び付かなかったり、政治に対する不当な不信や無関心によって、人は知らず知らずに自らの幸福を損なっている。本書は「幸福」という新たな評価軸を提示することによって、様々な問題に光を当て、既存の価値観に疑問を投げかけているのだ。
 さて、これらの主張にどことなく「そんなのは幸せの形を強要しているだけじゃないか」と胡散臭さを覚えた方もいるだろう。もちろん、本書はその点も遺漏がない。具体的には実際に読んでもらいたいが、幸せは本当に政策決定の方針になり得るのか、などについての議論も盛り込んであり、議論の余地はあれど、実に中立的である。また、本書の議論はあくまで「統計上、幸せを感じることが多いことがら」を示すのみにとどまり、個人の幸せの形はその個人にしか決められないことにも留意している。ただ、もっとも注目すべき点は、人間は「自分にとって何が幸せであるか」を驚くほどよく知らないことである。画面の向こうのあなたも、そして筆者もそれは例外ではないだろう。本書を読めば実証研究に基づいた「幸福」についての知見を手に入れることができる。その知見が実際にうさんくさいかどうかは、本書を読んだ後、自ら考えて欲しい。これを機に一人でも多くの人が幸せについて考え直し、自らの幸せを掴むことができれば、筆者も書評した甲斐があるというものである。

幸福の研究―ハーバード元学長が教える幸福な社会

幸福の研究―ハーバード元学長が教える幸福な社会

*1:以下、引用中の太字強調は筆者によるもの

キャラクターとセカイの三つの相――セカイ系キャラクター論

前回のおさらい

 前回の記事では大まかにセカイ系とは何を意味する物語なのか、その解釈の大枠を示した。軽くおさらいすると、セカイ系では世界を危機にさらすことによって、日常の危機と価値観の危機を引き起こし、大きな物語が失われた現代での日常の重要性を再確認し、「自由」について問題提起し、宙づりの気持ち悪さから抜け出そうとするのであった。ややこしい文章になったが、本稿では、個人がより個別化され、選択肢を選び取ることが難しくなっていることを押さえて欲しい。
 しかし、セカイ系の特徴はこれだけにとどまらない。いちど観た方ならわかるように、セカイ系は実に類型的なキャラクターを産み出す。『新世紀エヴァンゲリオン』ならば、碇シンジ惣流・アスカ・ラングレー綾波レイ、『魔法少女まどか☆マギカ』ならば、鹿目まどか美樹さやか暁美ほむら、『涼宮ハルヒの憂鬱』ならば、キョン涼宮ハルヒ長門有希などのキャラクターが挙げられるが、彼ら/彼女らからはどことなく分類ができそうな予感がしないだろうか。本稿ではセカイ系の構造からキャラクターを分類してみる。

セカイ系の三つの相

 セカイ系には特徴的な構造として「僕/君/世界」の三つの相が現れる。即ち、主人公としての「僕」、ヒロインとしての「君」、対峙する相手としての「世界」である。ただし、「君」は「ヒロイン」と限定してしまってはやや限定的だ。言い換えれば、「自意識/関係できる他者/関係できない他者」という相なのだ。「僕」=「自意識」についてはことさら説明する必要はないが、「君」=「関係できる他者」、「世界」=「関係できない他者」とはどういうことだろうか。セカイ系では「僕と君の関係が世界に反映する」ことを思い出していただきたい。「関係」、「反映」という語に注目しよう。つまり、セカイ系では僕や君が世界と関係するのではなく、世界はあくまで僕と君の「関係」の「反映」にすぎない。「君」は「僕」と関係することができ、「僕」の働きかけによって変わることができるが、世界は厳然たるルールとして「僕」と関係することができず、あくまで反映に過ぎない。これが「僕/君/世界」=「自意識/関係できる他者/関係できない他者」という式の意味である。まとめると以下の通りだ。

  • 僕=自意識
  • 君=僕との関係によって変わり得る他者
  • 世界=僕との関係によって変わり得ない他者

 さて、ここには前回の記事で語った「大きな物語の終焉」が関係してくることに留意したい。一見、どのように関係してくるのか見えづらいが、「僕/君/世界」という相に「我々」という意識が欠落していることに注目すれば、その意味は明らかになる。セカイ系では僕は僕、君は君で、それぞれの隔絶を基調としている。無論、セカイ系のもう一つのテーマとしていかにして集団(我々)を形成するかという面もあるのだが、これはあくまで隔絶を前提として出発したテーマで、隔絶抜きには語りえない。このメインテーマである「隔絶」こそが「大きな物語の終焉」がもたらした結果なのだ。「僕」は「世界」と、あるいは「君」とですら同じ価値観を共有しないという特徴は、その戯画化である。ここからセカイ系は出発する。
 次の項では改めてキャラクター分類に戻る。勘の良い方ならもうお気づきだろう。そう、「僕/君/世界」という相にキャラクターを分類するのである。

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セカイ系が描く世界――セカイ系概論

セカイ系とは何なのか

 「セカイ系」。アニメに詳しい方ならば、一度は聞いたことのある言葉だろう。ではセカイ系とはなんだろうか。百聞は一見にしかず、具体例を出した方が早い。例えば以下の作品である

 さて、これらの作品を過不足なく網羅する「セカイ系」の定義とは何だろうか。セカイ系 - Wikipediaには次のような定義がある*1

  1. "『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、1990年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群。"*2
  2. "主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと"*3

 しかし、これらの定義はしばしばセカイ系でない作品を含む。中間項に着目しては特撮ものまで含まれてしまうし、自我の葛藤に着目しては従来の文学作品まで含まれてしまう。本稿ではこう定義しよう。セカイ系とは「世界=日常の危機への拒否選択およびその過程における葛藤の物語群」のことである。

現代人の状況――大きな物語の終焉

 さて、ここで少し話をわれわれ現代人が置かれている状況について少々語りたい。現代思想の担い手の一人であるリオタールは現代について「大きな物語の終焉」ということを言った。これについて説明しよう。
 ここでいう「大きな物語」とは例えば「キリスト教」や「共産主義」や「科学技術の進歩」のように、(少なくともある時期、ある社会の)人々に広く共有された価値観のことである。これらの価値観が「物語」と呼ばれるのはそこに一定の道筋があり、一定の判断の規範を提供するからだ*4大きな物語が機能していた間、人々はその規範に従って行動すればよく、倫理観はこれによって説明された。また、大きな物語にはもう一つ重要な役割がある。行動指針を与えることによって人々に生きる意味を与えることができるのだ。キリスト教なら審判の日のために、共産主義ならユートピアのために、科学技術の進歩ならより便利な未来のために、という行動指針である。
 だが、現代において大きな物語は「終焉した」*5。これは実感として正しい。我々の生きる世界はキリスト教を規範としてはいないし、共産主義も、科学技術の進歩ですらも核や環境問題が現れたせいで、広く信じられているというわけではないし、個人的な信念を他人に強要できない*6。これらの信念を強く主張すれば、下手をすると「中二病」だとか「カルト的」などと揶揄される可能性すらある。
 こうして現代は人々によって思想がばらばらな、自由が推し進められた個人主義の社会となったのである。セカイ系が自意識の孤独を描くのは決して偶然ではない。現代社会においては、このようにして人々は共通基盤を失い、隔絶されているのである*7

*1:引用部は""で囲まれた部分

*2:前島賢による定義。

*3:東浩紀による定義。

*4:例えば共産主義においては、資本主義社会→革命→共産主義社会という道筋があり、この道筋を現実とするため、「資本家を倒し、革命を起こす」という判断の規範を提供する。

*5:実は筆者はこの「終焉した」が意味することについて普通とは違った解釈を持っているのだが、ここでは重要ではないので割愛する

*6:「信教の自由」や「言論の自由」はまさに大きな物語の終焉が、法律の条文として具体化したものといえる。

*7:なお、日本では「常識」という形で共通基盤があるていど残っているが、常識が通用しない場所あるいは人も増えてきていることは確かだ。

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