大きな物語の整理

 筆者はセカイ系が描く世界――セカイ系概論 - 脳内大雨注意報で注5に"「終焉した」が意味することについて普通とは違った解釈を持っている"と書いたが、今回はそのあたりについて述べていく。さて、先に挙げた記事での「大きな物語の終焉」について違和感を持たれた方もいるだろう。実際に筆者はその普遍性を疑う声を受けている。この記事は筆者に可能な限りで、「大きな物語」周辺の概念を再整理し、その疑問に答えるためのものである*1

大きな物語に関する諸疑問

マスターナラティブ。神、ユートピアイデオロギー等、皆がそれに巻き込まれており、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれるもの。

 これは大きな物語とは - はてなキーワードによる「大きな物語」の定義である。なるほどそういうものか、と納得していただければ話は早いのだが、よくよく考えていれば実に漠然とした定義ではないか。ざっとまとめると疑問点は以下の通りだ。

  1. "皆"とはどのくらいの人数が居ればよいのか
  2. "巻き込まれる"とはどういうことなのか
  3. "誰が"この筋書きを提供するのか

 以下ではこの三点の疑問に答えていく形で話を進めていこう。

大きな物語」は大きくなくてもいい

 これらの疑問の焦点は”大きな”物語がどのくらい大きくあるべきなのか、にある。
 キリスト教共産主義軍国主義……。これら「大きな物語」の例を挙げるときにはこうした壮大な、いわば大きい概念が持ち出されることが多い。しかし、この定義は実に恣意的である。例えばマイナーな新興宗教大きな物語とは言えないのだろうか。同じ価値観を共有して行動しているのに「大きな物語」があるとみなせないのは、実に不自然である。もっと小さくするならば、「いい学校へ入って、いい会社へ行って幸せになる」というようなある家庭内で共有された筋書きですら「大きな物語」とみなせるのではないか。すなわち、物語の"大きさ"は重要な要因ではない。大きさは問わず、自発的に集まった「共同体」*2であることだけが要求されるのだ。
 さて、ではこれらの共同体の「物語」たちはどのような共通点を持つだろうか。一般に大きな物語は結果として価値観がほとんど共有されるため、「共有されるもの」と定義されがちである。ところが、この共有という語も実に曖昧である。自明なように、どんなに徹底しても人間同士の個体差がある以上、完全な共有は不可能である。ここで"巻き込まれる"という表現が重要となる。自分から信じていくのではなく*3、"巻き込まれる"、つまり、従うかどうかは問わず、強制されるのが重要なのだ。従う、信じる、共有されるという現象は、単なる結果に過ぎない。メンバーが大きな物語に違反した時に、このことは明らかになる。神を否定したり、資本家だったり、軍に反抗したり、いい学校に入れなかったりしたときに、刑務所にぶちこまれたり、死刑になったり、勘当されたりするわけである。この後半部のいわば暴力があるか否かが大きな物語かどうかの境目なのだ。
 さて、ここまでくれば"誰が"大きな物語を提供するのかはもはや自明だろう。暴力をふるえる者、つまりもっとも権力を持つ者である。近現代社会ではもっとも重要な暴力である軍事力を独占するのは国家であるため、「大きな物語」と語った時、暗黙のうちに国家、あるいはその主権者が提供する大きな物語を指すことになる。
 ここまでの話をまとめて、再び大きな物語を定義しよう。

大きな物語
ある共同体において、権力を持つ者が強制する筋書きのこと。

個人の思念・社会の基盤と大きな物語

大きな物語が働いていたころ

 次に上で整理した「大きな物語」がどのように働き、どのように役立つのか、周辺の概念を導入しつつ説明する。端的にいえば、「大きな物語」は個人の認識の変化の傾向を明らかにすることができる。また、以下では国家という共同体、さらに言えば、先進国、あるいは日本という国家に焦点を当てていることを自明として話を進める。この他の条件では他の結果が得られることを念頭に置いてほしい。
 さて、まずはこの説明のために、個人の思念と社会の基盤という概念を導入したい。

個人の思念
一人の人間が考えていることの全て。
社会の基盤
社会が成り立つための概念の全て。大きな物語やその背景となる実社会の現状を含む。

 これらの関係を記述するときに、その難解さが尺度となる。改めて確認するまでもないが、実社会の現状は限りなく複雑である。そのために各分野の学者という職業が存在するのであって、実社会のすべての概念を一人の人間が把握できるはずもない。「大きな物語」はこの限りなく複雑な実社会を人つの物語に落とし込むことによって、難解さを軽減する効果がある。もう一つ、難解さを軽減させるものとして日常や常識が考えられる。「それは常識だろ」という言葉が、誰でもわかるあたりまえのこと、という意味を含意することも、常識が難解さを減らしていることの証左である。
 これら「大きな物語」や日常・常識は我々の思念をチェックする。大きな物語がいかに我々の思念をチェックするかは前述のとおりである。一方で日常や常識はもはや個人の思念と不可分で、ほぼ自明になっているために、個人の思念に多大な影響を与えるのだ。このチェックには序列が存在する。大きな物語は個人の思念とほぼ不可分であるために、個人の思念と同時に日常・常識をチェックするのだ。逆に我々の方もチェックに対応し、常にこれらを意識せねばならないので、日常・常識や大きな物語にコミットしていく。このコミットによって、変革の可能性が保障される。
 こうして大きな物語が働くとき、我々の思念は影響を受け、多かれ少なかれ大きな物語に基づいて世界を認識するようになるのである。
 図解すると次のようになる(図1)。

"終焉"とはどういうことだったのか

 現代社会の状況は「大きな物語の終焉」と形容される。ところが、上記の図解からもわかるように、大きな物語だけがすっぽりと消えてしまうわけにはいかない。大きな物語は複雑な実社会を個人に接続する役割を果たしているため、いきなりなくなるわけにはいかないのだ。
 そこで筆者は"終焉"ではなく、大きな物語自由主義にとってかわられると考える。自由主義だって一種の大きな物語ではないか、と指摘するのはごもっともである。大胆に表現するならば、大きな物語は終焉していない。自由主義であろうと「お互いの自由を最大限にすれば幸せになるだろう」という筋書きを提供するのである。ところが、自由主義では他人の自由を侵さない限り、何を考えようが自由なのだ。つまり危険な思念を実行に移した場合(サリンを撒いたり不適切な治療で人を殺してしまったり……)にのみ罰せられるだけで、サリンを撒くことを考えるだけでは罰することができない。このようにして前項でのチェック機能は弱まっているのだ。こうして、大きな物語は自由によってほとんど意識されなくなる。すなわち、終焉とはほとんど意識されなくなる、という意味だった。しかしこの言葉はややミスリーディングである。むしろここでは、大きな物語の背景化が起こっているのだ。考えてみれば自由主義は本来、政府や他人からの自由を意図していたから、当然の帰結とも言えよう。
 これに対応して、自由主義へのコミットの必要性も減ってゆく。なにしろ、どれほど心中で蔑ろにしようとチェックされないのだから、なぜコミットする必要があるのだろうか。無論、世の中には真剣に自由主義にコミットしている人もいるが、多くの人はもはや別の思想にコミットして世界を認識している。この大きな物語以外の物語に堂々とコミットするという行為も、自由主義大きな物語になっているからこそ成立するのである。
 この結果、チェックされることによる圧力が弱まり、思想が多様化する。その顕著な結果の一つに思想の暴走がある。先ほど引き合いに出した、オウム真理教ライフスペースがまさにこれだ。彼らの思想はだんだんと危険な方向に向かっていったのだが、思想が危険なだけでは罰することはできない。そうして放置されて臨界点を迎えた結果が地下鉄サリン事件だったわけでだ。
 もう一つ、顕著に観察される傾向に、日常・常識の延長がある。自由主義へのコミットが減ずるということは、必ずしも他の物語へのコミットが増すことを含意しない。ここまで読んできた方には必ずしも当てはまらないかも知れないが、人間には思考を節約しようとする傾向があることを思い出してもらいたい。ばら売りとパックだったら何も考えなくてもパックの方が安いはずと判断した方が楽に決まっているのだ。こうして日常・常識が延長され、大きな物語より平易な概念としてコミットされるのである。この現象のもう一面は、難解なものに対する拒否である。政治、経済、もっというなら日常に直接関係しないと考えられている学問全般が、ほとんど日常にしかコミットしないことによって拒否されるのだ。こうしてふらふらした、いわゆる巻き込まれ系という特徴が形成されるのである。
 これまでの議論を図示すると次のようになる(図2)。

文化への影響

 大きな物語の終焉改め背景化はこのように社会に大きな影響を及ぼしているのである。以下では簡単にいわゆるヲタ文化へこの現象がどのような影響を及ぼしているか見ていく。詳しくはセカイ系が描く世界――セカイ系概論 - 脳内大雨注意報を参照。

セカイ系とその周辺

 キャラクターとセカイの三つの相――セカイ系キャラクター論 - 脳内大雨注意報では日常の危機と価値観の危機がセカイ系の根幹を為すと分析した。これと前述の論考を考え合わせると、実にすっきりと説明できる。
 さて、セカイ系の主人公(「僕/君/世界」でいう「僕」と置き換えてもらって構わない)は確固たる価値観を持たない存在である。すなわち、巻き込まれ系であるという意味で、日常へコミットしているキャラクターだといえる。この日常にコミットするキャラクターから日常を奪うということは、価値観の危機に直結するわけである。言い換えるならば、日常をはぎ取られ、もっと難解なものにコミットせざるを得なくなったとき、いままで日常以外を持たなかったために、葛藤が起こる。
 また、巻き込まれ系の主人公に対して働きかける異質なキャラクターたち(往々にしてヒロイン)は今までで言うところの、多様化、もっと踏み込むなら暴走した個性といえる。この異質なキャラクターたちを通して主人公は世界の異質な面を垣間見るのである。そして時にはその異質なキャラクターに肯定され、新たな指針とすることもある*4。また、もう一つ強調しておくべき特徴は、異質なキャラクターとの邂逅はいつも日常の場*5で起こる。これは日常にしかコミットしていない主人公をいわば引きずり出すような役割を持つためにこうなるのである。
 すなわち、セカイ系は日常をはぎ取って異質な他者・世界と対峙させることによって、現代における個人の思念のありかたに問題提起しているのである*6
 ところで、この特徴はセカイ系のみに限らない。異質な他者・世界はその存亡が問題になるかどうかに関わらずヲタ文化で繰り返し登場するモチーフである。例えば西尾維新の小説はセカイ系でないが、これらの特徴を備えている。これらを「雰囲気セカイ系」と名付けると理解がはかどるのではなかろうか*7

日常系

 日常系はセカイ系の問題提起とは逆に日常を全肯定するものである。「現状で何が不満足?」というわけだ。だから日常系はゆるゆるで、人物関係の複雑さもなければ、世界の新たな一面が垣間見えたりもしない。しかし支持される理由は日常を強化し、複雑に考えなくてもよいという人間誰しも備える価値観を肯定してくれるからである。

まとめ

 ある先進国、あるいは日本という共同体では、自由主義が新たな大きな物語となり、大きな物語のチェック機能が弱まり、大きな物語は背景化する。これによって、多様化・暴走する個人とほとんど日常にだけコミットする個人が、大きな物語が働いていたときよりは傾向として多くなってゆくのである*8

*1:なお、恥ずかしながら筆者はリオタールについて入門書でつまみ食いしているだけなので、厳密にリオタールを踏襲した議論にはできないかも知れないが、お目こぼしいただきたい。

*2:家族や国家は選べないため、自発的でないともいえる。ここにはかなり議論の余地があるが、勘当・亡命のような手段がある以上、共同体とみなす。

*3:自ら信じていく場合もあるが、前述のように本質的な定義にもならない。

*4:ヒロインがだいたい主人公にデレるのはこのせいではないかと睨んでいる。

*5:典型が学園である。

*6:その結果、逆説的に日常の重要性がみえることもある

*7:是非観察してほしいが、ほとんどのヲタ系作品はセカイ系か雰囲気セカイ系に当てはまるように思う。

*8:あくまで傾向ということに留意されたい。自由主義以外の大きな物語以外にコミットしていることもある。また繰り返すがこれが先進国/日本についての議論であることにも注意。これより小さな共同体(学校、家族、趣味仲間)や大きな共同体(アジア、世界)では成り立たないことが多い。