セカイ系が描く世界――セカイ系概論

セカイ系とは何なのか

 「セカイ系」。アニメに詳しい方ならば、一度は聞いたことのある言葉だろう。ではセカイ系とはなんだろうか。百聞は一見にしかず、具体例を出した方が早い。例えば以下の作品である

 さて、これらの作品を過不足なく網羅する「セカイ系」の定義とは何だろうか。セカイ系 - Wikipediaには次のような定義がある*1

  1. "『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、1990年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群。"*2
  2. "主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと"*3

 しかし、これらの定義はしばしばセカイ系でない作品を含む。中間項に着目しては特撮ものまで含まれてしまうし、自我の葛藤に着目しては従来の文学作品まで含まれてしまう。本稿ではこう定義しよう。セカイ系とは「世界=日常の危機への拒否選択およびその過程における葛藤の物語群」のことである。

現代人の状況――大きな物語の終焉

 さて、ここで少し話をわれわれ現代人が置かれている状況について少々語りたい。現代思想の担い手の一人であるリオタールは現代について「大きな物語の終焉」ということを言った。これについて説明しよう。
 ここでいう「大きな物語」とは例えば「キリスト教」や「共産主義」や「科学技術の進歩」のように、(少なくともある時期、ある社会の)人々に広く共有された価値観のことである。これらの価値観が「物語」と呼ばれるのはそこに一定の道筋があり、一定の判断の規範を提供するからだ*4大きな物語が機能していた間、人々はその規範に従って行動すればよく、倫理観はこれによって説明された。また、大きな物語にはもう一つ重要な役割がある。行動指針を与えることによって人々に生きる意味を与えることができるのだ。キリスト教なら審判の日のために、共産主義ならユートピアのために、科学技術の進歩ならより便利な未来のために、という行動指針である。
 だが、現代において大きな物語は「終焉した」*5。これは実感として正しい。我々の生きる世界はキリスト教を規範としてはいないし、共産主義も、科学技術の進歩ですらも核や環境問題が現れたせいで、広く信じられているというわけではないし、個人的な信念を他人に強要できない*6。これらの信念を強く主張すれば、下手をすると「中二病」だとか「カルト的」などと揶揄される可能性すらある。
 こうして現代は人々によって思想がばらばらな、自由が推し進められた個人主義の社会となったのである。セカイ系が自意識の孤独を描くのは決して偶然ではない。現代社会においては、このようにして人々は共通基盤を失い、隔絶されているのである*7

拒否と葛藤――現代人が置かれている状況とセカイ系

破壊される日常

 さて、セカイ系の議論に戻ろう。前述の定義を思い出してもらいたい。この定義で注目すべきは世界と日常が等号で結ばれていることである。即ち、セカイ系では物語が進行していくにつれて、世界が主人公の手中に握られてゆく(あるいは握らされてゆくとも換言できる)のだが、その際に必ず主人公の周辺、つまるところ日常が危機にさらされる*8
 実のところセカイ系においてこの周辺の危機こそが重要なのであり、世界の危機は二の次なのだ。そのため主人公は一時的にであれ世界を破滅に導くような行為をとることがある。ここでは世界ですら必ず救うべき対象ではなく、他の選択(ヒロインの命が典型である)と重要性を比較され、選択される対象なのだ。そしてこの過程において、主人公は自分の価値観を問われる。即ち、セカイ系における危機には二つの側面がある。

  1. 最も根本的な生活が奪われるという意味での、日常の危機
  2. 究極の選択を迫られるという意味での、価値観の危機

 これがセカイ系が支持される理由である。われわれ現代日本人の多く、とりわけ娯楽を楽しめるような層は、十分な服を持ち、日々の食に事欠くわけでもなく、住む家がないわけでもない。だから現状に一定の満足感を覚え、それが破壊されるのを恐れる。この感覚については世代間で隔たりがあるかもしれないが、若者では特に顕著である。『絶望の国の幸せな若者たち』なんて本が出ることがその一つの証左といえよう*9。その現状、すなわち日常に危機が起こった時、われわれは戦慄し、その危機における選択を拒否しようとするのだ。即ち、大きな物語が終焉した影響で多様化する現代の価値観を問い直され(価値観の危機)、選択を迫られることにアクチュアルな葛藤を覚え、少なくとも一時的に何も選択ができなくなる(つまり、選択を拒否する)*10。これが現代人の置かれている状況とセカイ系の親和性だ。

「自由」に拘束される主体

 選択の拒否はもう一つの側面からも説明することができる。われわれは自分のことを自由な主体であると考えているが、突き詰めれば*11そうではない。全ては因果関係から必然的に起こることであり、選択の余地はない*12。だがカントは「超越論的な原因性」という概念を提起し、この問題を解決した。無駄に難解にしないため、ざっくり言ってしまえば、「他の人間から自由に見えるのだから、自由とみなしてよい」というものである。
 ここで、セカイ系の主人公たちを思い出していただきたい(例えば碇シンジ、岡部倫太郎、キョン)。彼らは自由にふるまっているだろうか? 彼らは一般的にこよなく日常を愛する、いわゆる"巻き込まれ系"である。彼らは巻き起こされた事件に拘束され、選択を突き付けられ、嫌々に行動を開始するのである。つまるところ、自由とは複数の選択肢ABCDE……から一つを選び取ることであって、選択肢の前に迷うことではない。彼らには「超越論的な原因性」がないのである。
 この現象も「大きな物語の終焉」によって説明することができる。大きな物語が終焉した現代では、行動の指針となるべき絶対の規範がない。それ故に選択肢ABCDE……から一つを選ぶことができないのだ。「大きな物語の終焉」によって、一見、人々はより自由になったようだが、むしろ逆なのだ。自由になったからこそ、選ぶべき選択肢がわからないという意味で不自由になっている。これは奇妙な逆説である。

セカイ系が意味すること――日常の再確認と自由の希求

 ヒロイン問題など語るべきことはまだ多いが、そろそろ疲れてきた。本稿では「大きな物語の終焉」を軸に「日常の危機」と「価値観の危機」からセカイ系の大枠を見てきたが、最後に「セカイ系は何を意味するのか」を考えてみたい。
 表題にも掲げたが、その意味は二つである。

  1. 日常の再確認
  2. 自由の希求

 この二つを本稿の軸である「大きな物語の終焉」に絡めてまとめとしよう。まず1だが、現代では生きる意味を得る場所として、また、複雑さを覆い隠す機能として日常が重要になる*13。もちろん、現代でなくても日常は重要であったが、大きな物語が失われ、それに参加することによって生きる意味が得られなくなった現代では、特に重要性を増すのである。セカイ系日常をあえて危機にさらすことによって、その重要性を再確認する
 次に2だが、大きな物語が失われ、行動の指針が失われた状態は我々にとって非常に不快である。前述のように、同等に重要な価値をもつ選択肢が並んでいる状態は、自由が失われていることに限りなく近いのだ。セカイ系のもう一つの意味は、そんな現代の状況に対する問題提起であり、一つの解決策の提示なのだ。これは一種の現代の気持ち悪さへの抵抗であり、"脱現代"への衝動といえよう。

補足

 ところで、筆者は日本のサブカルチャーを念頭に置いて語ったが、筆者の私的な観察によると、アメリカの映画にもこの傾向は出ているように思う。例えば以下の二作品。

 このように日本のサブカルチャー界のみにとどまらず、セカイ系の論理は随所で見受けられる。最後までお付き合いいただいた読者の皆様方も、これを機に創作物に潜む「大きな物語の終焉」「日常の危機」「価値観の危機」を見つけ出していただけると筆者としては幸いである。

*1:引用部は""で囲まれた部分

*2:前島賢による定義。

*3:東浩紀による定義。

*4:例えば共産主義においては、資本主義社会→革命→共産主義社会という道筋があり、この道筋を現実とするため、「資本家を倒し、革命を起こす」という判断の規範を提供する。

*5:実は筆者はこの「終焉した」が意味することについて普通とは違った解釈を持っているのだが、ここでは重要ではないので割愛する

*6:「信教の自由」や「言論の自由」はまさに大きな物語の終焉が、法律の条文として具体化したものといえる。

*7:なお、日本では「常識」という形で共通基盤があるていど残っているが、常識が通用しない場所あるいは人も増えてきていることは確かだ。

*8:例えば使徒襲来(新世紀エヴァンゲリオン)、世界線の切り替え(steins;gate)、平行世界との生存競争(ぼくらの)、閉鎖空間の出現(涼宮ハルヒの憂鬱)……。

*9:また、若者に限らず、安全への欲求は低次な欲求であるために優先される。

*10:例えば、わが国では一時期、マイケル・サンデルの政治哲学講座が流行ったが、サンデルの提示する倫理的難問に「ええい、そんなの決められるかよ!」という気持ちになったことはないだろうか。これがまさに選択の拒否である。

*11:つまり超越的な意味で

*12:量子力学では確率による変化がみられるが、ランダムな変化は選択とはいえない。サイコロの出目はサイコロが選択したわけではないのだ。

*13:宮台真司氏ならこれを「ホメオスタシス」と形容するだろう。これを究極まで推し進めたのが日常系ともいえる。

*14:ただし、この作品は主人公がマッチョなのでバタフライ・エフェクトほどにはセカイ系らしくない。